北海道の各地には、昔の土木の仕事を今に伝える貴重な構造物が遺されています。
ここでは、現在も使用されているものも含め、7箇所の歴史的土木構造物をご紹介します。
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士幌線は、1926(大正15) 年に帯広から上士幌まで、1937(昭和12)年に糠平まで、1939(昭和14)年に十勝三股まで全通した、延長78.3㎞の行き止まり線です。
建設が始まったのは 1924(大正13)年、上士幌から十勝三股間の本格的な工事は 1934(昭和9)年から始まりました。
途中、音更川の急峻な渓谷に沿う難工事であり、1000m進むと 25m登るという急勾配と半径200mのカーブが続く本格的な山岳路線でした。
残された工事記録から、周辺景観に配慮した設計であること、現地材料を使って工事費を安く抑える工夫、建設機械の発明についてや当時の建設技術の変化を知ることができます。
1978(昭和53)年から 1987(昭和62)年にかけて廃線となり、現在はめがね橋と線路跡が残されています。
三弦橋は、この地方一帯の国有林から木材を搬出するために、1958年(昭和33)年に完成した単線鉄道橋です。
大夕張ダム(1962年完成)建設計画により、夕張岳線(在来線)の一部が水没することになり、旧線の付け替えにともない移設されましたが、木材の輸送手段が森林鉄道からトラックへ替わったことから、1963(昭和38)年夕張岳線は廃止となり、わずか6年間しか併用されませんでした。
建設費用の節減と、周辺景観への配慮から採用された三弦トラス構造は、断面が小さいため鉄道橋として架橋されることが珍しく、加えて381.80mという長大な長さは全国の森林鉄道でも他に例がなく貴重な遺構とされています。
1899(明治32)年 | 北海道官設鉄道上川線(現JR函館本線)に「第1空知川橋梁」として空知川に架けられた。 |
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1923(大正12)年 | 王子製紙の専用軽便鉄道(山線)の橋として現在の場所に移され、「湖畔橋」と呼ばれ親しまれていた。 |
1951(昭和26)年 | 軽便鉄道の廃止。鉄道橋としての役目を終える。 |
1967(昭和42)年 | 王子製紙より千歳市に寄贈され、道路橋・歩道橋として利用された。 |
1995(平成7)年 | 老朽化のため、解体修復工事が開始。製造時の技術・姿を保つため、リベットの復元などが行われた。 |
1997(平成9)年 | 工事が完了し、「山線鉄橋」として現在に至る。 |
戦時中、軍事上重要な地域として指定されていた渡島半島に軍需資材や物資・兵員を輸送するため、1937(昭和12)年函館駅を起点として戸井に至る旧国鉄戸井線の敷設が着工されました。
やがて戦局悪化による資材不足に陥り、1943(昭和18)年建設予定区間 29.2kmのうち、2.8kmの未着工区間を残して工事が中断されました。その後工事が再開されることなく、今も未成線として老朽化した遺構が現存しています。
赤松並木のあるあたりの国道5号線は、北海道開拓に最も重要な路線として、日本ではじめて長距離馬車道が建設された札幌本道を、現在もそのまま使用している区間です。
天然分布の北限が青森といわれる赤松を北海道で育成することに成功したのは、1857(安政4)年に七飯薬草園を管理していた栗本瀬兵衛が、佐渡から赤松の種を取り寄せて育てたことが始まりといわれています。
やがて成長した苗木は函館市内の道路や公園に植えられるようになり、現在国道に残る赤松の大半は1876(明治9)年明治天皇の北海道行幸を記念して植栽されたものです。
小樽の住民増加に伴う水道整備のため、わが国近代水道の創設期に多くの水道を手掛けた中島鋭治工学博士の設計指導のもと、1914(大正3)年に奥沢水源地ダムが完成しました。
水道専用ダムとして北海道で最も古いこの自由越流式アースダムの溢流路には、21mの落差による流水の勢いを減らすために、10段の水留階段が設けられています。
両岸の裸地には植林がほどこされ、樹林に囲まれながら何段もの階段を伝い落ちる水の流れは「水すだれ」と呼ばれ、1985年に厚生省の「近代水道百選」、後に「近代土木遺産」に選ばれています。